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窪田登先生 会長就任記念講演と思い出すままに

 平成18年7月8日(土)窪田登先生に、本協会の会長に就任して頂くことを記念して、ご講演していただいたが、 私(矢野)の視点でみた会長就任に至る経緯や当日の舞台裏のなどを、紹介したいと思います。

 わが国の、スポーツ界・フィットネス界における窪田先生の功績は、今さら言を待つまでもないであろう。 現在のスポーツ界・フィットネス界で指導的立場にいる方で、先生のご指導を受けたことのない方は、恐らく皆無であろう。
 当協会の発足当時、将来的には「会長に、窪田先生をお迎えできれば・・・」という漠然たる思いがあった。当時の先生は、吉備国際大学学長の要職にあり、多忙を極めていた。もっとも先生が多忙でなかったときを、私は知らない。早大時代でも局長から教務主任になられたとき、「役職は好きでない。やりたい人にやらせたい(早く辞めたい)」 と常々おっしゃられていた。このような多忙な日々を送られている先生であるので、会長職を依頼するには時期尚早と思われた。
 それが「(平成18年の)3月で学長を辞めさせてもらいたい、と関係者には言っているのだが・・・」と言い続けており、ようやく辞任することになり、少しは時間が取れるようになったことを伝え聞いていた。
 もっとも、先生が学長を退任されたと知るや、地元岡山県(先生は倉敷出身)のスポーツ医学会から、会長を引き受けてもらいたいと要請されたなどは聞き及んでいたが、日本スポーツ指導者協会の理事長を引き受けられたというので、「それなら本協会の会長も可能ではないのか」と、期待を抱ける状況になってきた。
 先生が東京にいらっしゃるとの報が入ると、何を差し置いても昔からの関係者がはせ参じる。「今回は、少し時間が取れるみたい」との連絡が入ったのが、今年(平成18年)5月であった。その席で、「(恐れながら)うちの協会に・・・」と依頼すると、「いいよ、顧問でもなるよ」と快く引き受けてくれたのである。善は急げ。間髪を入れず、先生の一番弟子を自認する今西副理事長を通じて、会長就任の了解を頂いたのである。

 先生の簡単な足跡を、別の角度から少し見ておきたい。私の記憶では、日本人に『世界』を意識させたのは、 今から40年前に開催された東京オリンピックではなかったか。テレビの普及によって、世界の凄さを見せ付けられたのが、100Mで金メダルに輝いた『褐色の弾丸』ボブ・ヘイズである。非公式ながら、準決勝において世界で初めて9秒台を記録したことよりも、日本人はその肉体に圧倒された。強烈な印象であった。ほとんどの日本人は
「あの(ゴリラのような)肉体には、とても敵わない・・・」
 と、 思わざるを得ない感があったと思う。まさに、これがきっかけで、日本人の肉体改造必要論が湧き上がったのである。常に「日本選手は、体力不足」とオリンピックや世界大会での反省の弁を繰り返していたが(今でもそうだが・・・)、国が具体的に動き始めたのである。
 日本体育協会が中心になって、ウエイトトレーニングの指導者養成が始まった。窪田先生が全国を巡回して、マッスル・コントロールや力技を披露したことで、技術至上主義の旧態依然とした指導者が次々と 脱帽してコンディショニングの重要性に目覚めていった。
 講道館にウエイトトレーニング場を導入するときも、先生がアドバイスしており、韓国がソウルオリンピックに向けてナショナル・トレーニングセンターを造るときもアドバイスしている。相撲の武蔵川部屋や、その他全国の数多くのコンディショニングに関わるハードやソフトを提供している。
 公的な施設で初めて本格的なトレーニング施設として、東京オリンピックの翌年に、国立競技場に広大なトレーニングセンターが開設されたが、主任指導者として、設計から指導システムまでを先生が一任された。三島由紀夫も先生を訪ねてここのメンバーとなり、1年間の会費を前納したが、たった一度の使用であったという。三島氏は水道橋にあった汚い地下室のジムに、切腹するまで通い続けていた。
 余談ながら、たった一度の使用は、三島氏の『太陽と鉄』(彼自身が最も難解な書と述べている)の一場面に登場する。
 さて、国立競技場トレセンといえば・・・・

 まだ『空手バカ一代』がマンガ週刊誌で連載中に、極真空手が第1回の世界大会を開催することになり、今では伝説と化した大山倍達館長は、「私の目の黒いうちは、日本人以外の世界チャンピオンが誕生したら腹を切る!」と公言していた。当然、極真空手の名だたる選手たちは死ぬ気で激を飛ばされており、マンガで『パワー空手』の代表とされ、当時の絶大な人気を博していた佐藤勝昭氏(現佐藤塾)は、国立競技場トレーニングセンターに入会してきた。師の大山館長が先生と呼んだ窪田先生が指導主任をされていたからである。佐藤氏はそこでパワー空手に磨きをかけ、初代世界チャンピオンの座を奪取した。以来、国立競技場トレーニングセンターは、歴代の極真空手チャンピオンを養成するメッカとなっていた。

 閑話休題。
「窪田さん、熊と戦わないか。あなたなら勝てるから・・・」
 こんな話を、まだ先生が若いときに持ちかけられたことがある。大山倍達館長からである。
「熊という奴はね、鼻先が弱いから、ここを・・・」
 先生は断ったが、後年、極真世界大会で相手を秒殺したあの『熊殺し』ウイリー・ウイリアムスが、それを実現した。
 ウイリー・ウイリアムス――この戦慄の空手家は、凄まじかった。私は彼が出場した世界大会ではリングサイドにいたが、準々決勝では元全日本チャンピオンのアバラを折っており、彼の前進を阻む選手は、この地上に存在しないのでは、と思われた。準決勝で三瓶啓二選手(超ハードトレーニングで全日本三連覇を達成する)との対戦で、まったく攻めずに仁王立ちし、突然の反則で失格となった。「日本人が負けたら腹を切る」と公言していたからなのか・・・・三瓶選手は酔っていても、ついにその真相を話さなかったが、もし、全盛期のウイリー・ウイリアムスが、現在のK-1やプライドに出ていたら・・・・。
 話を戻さねばならない。

 コンディショニング――とくにストレングス系の方々にとって、窪田先生は神の様な存在である。先生はまったく面識のない方でも、
「私の先生が、窪田先生の指導を受けたことがあります。ですから、私は窪田先生の孫弟子です!」
 と勝手に『弟子』と名乗る多くの方に会ってきた。ある著名なスポーツ選手も「私の先生が、窪田先生の指導を受けた弟子なので、私は先生の弟子の弟子です」と自慢げに語っていたことを思い出す。
 今回の講演会の2日前に、今西副理事長が遠藤光男氏(ジム会長でマスコミ出演多数)に久しぶりに会ったとき、「(誰がなんと言おうと)自分は窪田先生の弟子です!」と言っていたという。

 先生は講習会や書物(原稿)などではあまり語らないが、トップアスリートから半健常者まで、多くの方々の指導アドバイスをしており、プロ選手、オリンピック選手など、先生のアドバイスを受けて実に多くの方々が成功の道を歩んでいる。ともすれば著名人の名前を出して、マスコミ受けする宣伝をしたがる方々が多い中で、先生は自分をあげつらうようなことはほとんどないことを、私は知っている。
 講演会などではあまり出てこないが、何気ない会話のなかでは、驚くべき話が次々と披露されることがある。
 アーノルド・シュワルツェネッガーがフランコ・コロンブと日本初来日したとき(当時はミスターオリンピアとして君臨するボディビルダーであった)、先生と各地を回られた。トレーニングもされたという。彼は先生に、
「トレーニングに関することなら、ほとんど知らないことはないほど、様々なやり方を知っている。今の自分に必要なのは、先生(プロフェッサーと呼んでいた)のように的確にサイコアップしてくれる人なのです」
と語っている。先生は50歳を超えていたが、ショルダー・プレスではアーノルドと対等に100キロを超えるウエイトを持ち上げていたので、彼も驚いていたという。そして、自分は「映画俳優になるのが夢だ」と語っていた(それは実現し、政治家にまでなっている)。

 こんな裏話を講演のテーマにできないだろうか。力技に関することや、歴史的な人物像など、海外の資料も含めて膨大な蔵書に埋もれた生活をしている先生以外、後世に語り継げる人はわが国では皆無である。いくつかの書籍に、ヨーロッパやアメリカのストレングス系のコンディショニングに関する歴史は紹介されるが、本格的な研究書籍は多くないと思われる。窪田先生は、『筋力トレーニング法の変遷100年史』で世界の潮流を詳細に記録しており、さらに大著『私のウエイトトレーニング50年史』で、わが国における筋トレの発展が詳細に網羅されている。この書では、様々な運動法などが紹介されているので、コンディショニングに携わる方は、ぜひ購入しておきたい一冊である(改訂版がこの秋に出る予定)。
 ついでながら、米国では、デービット・ウイロビーがかなりの資料を収集して発表している。かつて先生のアドバイスで彼の大著「Super Athlete」を購入し、日本の忍者の体術にまで言及しているのを読んで、感心したことがある。その当時、ウイロビーは日本の『女相撲』に興味を示しており、資料を送ったら、「訳してくれ!」といってきたので、荷が重過ぎて撤退したことを想いだす。
 また、英国ではデービッド・ウエブスターが、歴史的な記録を収めた「Iron Game」「Beefcake」などの書物を世に出している。彼は先生の海外の友人の一人であるが、その中の「Japan」編で、窪田先生の写真を載せて、『日本における先駆者』としている。この項には、若木竹丸氏などわが国を代表するアイアンマンの写真も載せられているが、先生が資料を提供したものである。
 若木竹丸――怪力法の著者にして、(体重比筋力において)空前絶後の大記録を樹立した方である。連日10時間を越える鍛錬で、70キロに満たぬ体重ながら、フロアープレス(当時、ベンチプレスは存在しなかった)265キロを差し上げ、当時の腕相撲日本チャンピオンを一瞬でひねりつぶした怪力ぶりは、伝説となっている。
 窪田先生は、ユージン・サンドウを『近代ウエイトトレーニングの父』と呼んでいるが、若木氏をわが国における 『近代ウエイトトレーニングの開祖』と位置づけている。怪力法は、当時の著名な柔道家やプロレスラーに多大な影響を与えたが、窪田先生は早稲田大学の学生時代から若木氏の家に入り浸っており、二人のエピソードは数え切れないほどある。私の知る限り、窪田先生が本当に酔っ払ったのを見たのは、若木先生と深夜まで歓談されたとき以外になかった。
 若木先生といえば、ある極真空手支部長らとお伺いしたとき、「どれ、君の拳(こぶし)を見せなさい」といって、
「大山の比ではない!」
 と断じたことがある。そのとき、大山倍達館長の恐らく全盛期の拳の写真を見せられた。とても人間の手とは思えなかった。大山館長は自伝の中で、清澄山での修行を終えて人里に来て、電信柱(木)を突き倒すつもりで、 正拳を入れたが、ガーンと揺れて倒れなかった。ただ、自分のめり込んだ拳(こぶし)の跡が残っていた・・・という。このときの写真を見せられて、納得させられたことがある。ただ若木先生は「大山は・・・」 と伝説化されたヒーローの素顔を知る一人であった。
 そして・・・窪田先生もまた、多くの伝説的人物の素顔を知っている。大山倍達館長は、「ベンチプレスは200キロ持ち上げた」と自分の本に書いているが、窪田先生に尋ねると「135キロは上げたのではないか」と答えてくれたことがある。ジャイアント馬○は、「110キロ程度」と聞いて、何だその程度なんだと思ったことがある。

 ともかく、このような裏話は実に興味深い。本や雑誌に載らないような話を、講演のテーマにすればよかったかな・・・と、少し悔やまれた。

 7月8日講演会当日。先生は始発で倉敷を発って、午前中は出版社で調べものをして、JR田町駅にやってきた。今西副理事長と私の3人で待ち合わせて、協会近くのファミレスに赴くと、満席。予定ではティーコンディションの若手スタッフが席を確保するはずであったが、予定が狂う。すかさずスタッフ数人が走り回り、近くのホテルのラウンジに席を確保する。
 大阪からJHCAやティーコンディションと連携するフィクスド・コンディション代表の砂川氏、平岡氏がスーツ姿で身を固めており、続々と関係者が挨拶する。この席で、先生の片手差しの話になる。
 若手スタッフが、「女性を片手で持ち上げるそうですが・・・」
 と質問すると、
「ああ、そんなのはわけないよ!」
 と、いとも簡単に言う。
「それは、コツがあって、こうすると云々」
 私は実際に目撃しているので、コツがあるとかないと言う以前に、力がなくてはまず不可能である。それは―――
  新宿のあるクラブでのこと。女性の和服の帯に小指だけを引っ掛けて、先生は椅子に座ったままで、ニコニコしながら頭上に持ち上げたのである。女性は驚いて両足をバタバタさせたが、体が頭上に浮いていた。

 協会のビルに着くと、九州から来た方も含めすでに多くの参加者の方が待っていた。出版関係者や業界関係者もいる。仕事の都合で参加できない方が多かったが、ともかく記念講演会は無事終了する。そのときの雰囲気を、画像から汲み取っていただきたいと思います。


(左) 林事務局が、協会を代表して挨拶。窪田先生の紹介を行う。 




(右) 講演される窪田先生 
現在76歳。窪田先生は、2年間にわたりトレーニングを中断して、どの程度まで身体が変化するかを記録し続けた。今また、トレーニングを再開し始めている。自分自身の身体で高齢者のリ・コンディショニングを試されている。

        


平成18年7月末  矢野 雅知