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コラム16
フォトンベルトと混沌の時代その4
さて本稿「その4(最終回)」は、フォトンベルト突入となる2012年を迎えるに当たって、我われ日本人のアイデンテティを再認識して、ポジティブなエネルギー波動を発しようというものである。つまり、周波数を高めようということである(ネガティブなマイナス波動は、周波数が低い)。そのため、マイナス思考を拭い去ることにウエイトを置いて筆を進めようと思う。
我われの根源的な本質は、現在の経済大国としての日本人ではなく、ひと昔前の我われ日本人が受け継いできた、万物に精霊が宿ると考え、自然と共に生き、人も家も自然もあるがままに捉えて来た、本質的に争うことのない、素朴な日本人としての魂を持った先祖の生き方にあるのではないか。これをもう一度、取り戻さねばならないのではないかと思われる。
なぜか? 以下、私なりにもう一度まとめるつもりで書き綴るものです。
争いを好まない民族
ソ連のスターリンや中国の毛沢東は、膨大な数の人民を、共産主義革命で粛清している。文化大革命では、7千万人もの犠牲者を出したとされる。また、仏教国カンボジアでは、ポル・ポト政権のときに、全国民の5人に一人が虐殺された。
人類史をみれば、政権交代に際しては、多くの人民が犠牲となっている。それが世界の常識であり、キリスト教文化圏とイスラム教文化圏での政権争いでは、遠く古代ローマ時代から、現代に至るまで、血塗られた歴史に彩られている。
一方、わが国の、いわば日本の大革命における桜田門外の変から西南の役までの死者は、わずか4万5千人。この数字は、世界史からみれば、極端に少ないといわれている。日本人は、本質的に「和をもって尊としとなす」民族なのである。
幕末の大混乱期では、ご承知のように、本協会に程近い田町駅付近の薩摩屋敷で、西郷隆盛と勝海舟が江戸城無血開城を話し合っており、後に勝海舟は氷川清話の中で、
「その気になりゃ、江戸を火の海にして官軍を打ち破る目論見はあったが、西郷の赤心に打たれて・・・・」
と回想している。
徹底抗戦を主張した小栗上野介の意見に従っていれば、戦費の代償として北海道はフランスに割譲されていた可能性があった。だが、先見の明のあった徳川慶喜は、断固として恭順謹慎し、無血開城を了承した。維新後は普通の大名並みの扱いとなったが、維新政府はその功績の大きさから、後に公爵にしている。
明治維新とは、有色人種の国の中で、唯一成功した体制改革であり、日本人の血脈にある『和をもって尊としとなす』文化が根底にある、と思われる。事実、幕府軍を打ち破った維新政府は、戦後になって関係者を処刑したのは、たったの2名(近藤勇と小栗上野介)であるし、薩摩藩邸を焼き討ちした庄内藩は、新政府からひどい処分を課せられると覚悟していたのに、官軍代表の黒田清隆は、藩主酒井忠篤を上座に据えて、敗軍の将を辱めることを一切しなかった。
日露戦争でも、乃木大将は敵将ステッセルを同等に扱って、世界から賞賛された。日清戦争においても、清の海軍提督が戦い敗れて自決したとき、部下は遺体をジャンク船で母国に運ぼうとしたところ、日本軍はボロ船で帰還するのはよくないといって、軍艦で送り届けている。武人の魂が血脈に流れているからである。
恐らくこのようなことは、他の国ではありえないと思う。
この際なので付け加えておきたい。日本人は南京で大虐殺を行なったと、事あるごとに指摘され続けている。いまだに中国は、南京の当時の全市民よりもはるかに多い数字を持ち出して、「30万人を虐殺した」
と喧伝している。
日本人の虐殺は事実であると証言した神父は、東京裁判において
「実際には、虐殺したところを私は見ていない」
と述べている(後に、この神父は中国側のプロパガンダであることが判明している)。虐殺の画像の多くが、編集したものであることなど(現存する3万枚のほぼ全てが、虐殺を裏付けるものではないことが検証されている)、かなり誇大な宣伝に利用されていることは、幾度も指摘されてきた。例えば、蒋介石の夫人(宋三姉妹の一人)が、日本が撮った写真を利用して、アメリカを参戦させるために、虐殺の証拠写真だと触れ回ったことに端を発している。我われは、次のことを知っておくべきと思われる。
南京において、蒋介石軍は、国際法をはずれた戦いをした。例えば、退却に際して、敵軍に利用させないために民家などをすべて焼き払っている。これは、後にニューヨーク・タイムズのダーディン記者が目撃・報告しているように、中国軍自体による放火略奪が行なわれている。また、中国兵が農民に偽装して、国際法では「禁じ手」であった日本兵を背後から襲うというゲリラ戦法をとった。一般市民を戦闘の巻き添えにさせないため、正規兵はそれと分かる軍服を着用しなければならないのに、このルールを破り、人民の背後に隠れて攻撃をする、という不法な戦術を用いたのである。
東京裁判は、戦勝国の演じたもので、裁判長 も、主席検事で米国のキーナン検事も、後に東京裁判は国際法に準拠しない違法裁判であることを認める発言を行っており、現在、東京裁判の正当性を信じている法律家は皆無である。だが、今だに日本に揺さぶりをかける政治手法として、東京裁判に基づいて、このような問題を持ち出しているのである。
もうひとつの、日本が韓国を統治した問題にも触れておこう。あれは植民地支配ではなく、合法的にやって、しかも世界が認めたものであった。外国から文句が出たものでもない。しかも韓国(朝鮮)が、清かロシアか日本かの、いずれかを選択しなくてはならない状況で、自分たちで日本との併合を選んだものである。
もし植民地支配であれば、国民に教育を受けさせなかった。だが、日本本土と同じように、強制的に義務教育を受けさせた。元韓国大統領朴正煕氏は貧農の出であったが、そのお陰で教育が受けられて、大統領にまでなった。彼は述べている。
「日本を選択したのは我われ韓国人である。われわれが選択したのであって、日本が侵略したのではない。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったであろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわないが、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価している」
このことは、まさに教育の大切さを窺わせる。今、教育基本法の改正が焦点となっているが、1947年に制定された教育基本法は、日本民族の精神を荒廃させ、日本の国家社会の頽廃を招く原因となったという指摘は、肯けよう。
この法律は、わが国が連合国軍の占領下にあった当時、GHQ(連合国軍総司令部)の干渉を受けながら制定されたものであるから、日本民族を腑抜けにし、日本を再び世界のトップクラスの国家に上昇させないことを目的としていた。そこには「個人の尊厳」「人格の完成」など、一見人類に共通した教育理念がうたいあげられているが、日本人としての「愛国心」「日本の伝統・文化」「家族愛」等を尊重する項目は抹殺されている。
だから、今一度我われ日本人としてのアイデンテティを、取り戻さねばならないと思われる。 教育を含めて、少なくとも前時代の日本人は、世界に誇るべき人種であると私は思っている。
日本人のプライド
幕末から明治初期に日本に来た外国人は、「日本人には、2つのタイプがある」といっている。すでに落ちぶれていたとはいえ武士の魂を持つタイプと、やたら外国人にペコペコする商人たちだった。
武士はやはり武士であり、辱められれば、相手を殺して自分も腹を切る覚悟はできていた。厳然たるプライドを持ち続ける武士は、外国人の目にはすさまじいものに映ったと思う。
私は学生時代に、新渡戸稲造の『武士道』を読み、西洋の騎士道と本質的に対比した論に、日本人としての誇りと優越性を強く意識した記憶がある。ギブ・ミー・チョコレートの時代に育った私のような団塊の世代は、50年代60年代のアメリカンパワーの前に圧倒されていたが、日本人の持つ本質的な美学は、何よりも誇りであった。
石原慎太郎が、次のように書いたことがよみがえる。
ゼロ戦の撃墜王坂井三郎氏が外国人記者の前で講演したとき、「あなたにとっての太平洋戦争は?」
と問われて、
「太平洋戦争は、意味のある戦争だった。強いて私が後悔するなら、たくさんの優秀な部下をなくしたことだ。それ以外の後悔はない」と言い切った。聴衆がシーンとしてしまった。
そのあと坂井さんが、「だって皆さん、そうじゃないですか。あの戦争が終わって国際連合にたくさんの国が誕生して参加しました。一国一票を持って人類の歴史を左右する、運命を左右する権利を持った。みんな白人の植民地だった国だ。やっと有色人種が世界の舞台に出た。その引き金はあの戦争ですよ」。
という言葉を聞いて、石原は拍手喝采を送ったというのである。
コロンブスがアメリカ大陸を発見して以来、イスラムも、インドも、清も、インカもマヤも、白人種の欧米文化にことごとく制覇されてきた。コロンブス以降、有色人種の文化は蹂躙され、植民地化され、「白人は優秀な人種で、有色人種は劣等人種である」とされてきた。だが、唯一、例外があった。
東洋の島国日本は、他の有色人種の国々とは違っていた。生物学的に劣る人種と見下していた欧米人は、日本人を侮辱する態度をとると、死を覚悟して切りかかってくることに畏敬の念さえ抱いていたという。明らかに、他の植民地化してきた国とは異なっていた。
誇るべきことに、太平洋戦争後にアメリカ進駐軍の管理を一時的に受けた以外、日本は他国に政治的支配を受けたことは、有史以来一度もなく、日本は言語も民族も独自のもので、文化の吸収能力も卓越していた。
例えば、種子島に鉄砲が伝わると、たちまちそれは吸収されて、世界最大の鉄砲保有国になっており、信長が長篠の合戦で使った連続して打つ戦法は、欧米では実に350年後の第1次世界大戦のドイツが採用するまで、用いられなかったのである。
鎖国で兵器の発達は停滞したが、明治新政府はあっという間に欧米文化を吸収している。歴史学者トインビーは、「日本人のやった近代化は、人類の歴史のなかの奇跡だ」と述べたが、日本が有色人種のなかでたった一国だけ、これだけの近代国家をかなり早くつくった背景には、いろんな歴史的必然性がある。
例えば、社会学者スーザン・ハンレーは、『江戸時代の遺産』(中央公論)の中で、精緻に江戸時代を調べて、日本の急速な近代化の必然性がすでに歴史のなかにあったということを書いている。
そのような背景があるから、武士の魂が宿る品位ある国家として、太陽の沈まない国といわれ、世界中を植民地化してきた英国が、日本とだけは当時世界が驚愕した対等な日英同盟を結んでいるのである。
何といっても、大国ロシアを打ち破った日露戦争での勝利は、白人国家にとって衝撃的な出来事であった。有色人種が白人国家を打ち破ったことが契機となって、民族運動が勃発していくのであるから、日本は第2次大戦では敗れたとはいえ、日本の果たした役割は、有色人種国家にとって、大きかったとの指摘は肯けるかもしれない。
インドネシアではオランダが400年もの長きにわたって植民地支配をしていたが、わずか40日間の日本軍との戦争に敗れて去ったし、ビルマでは東洋人を動物並みに扱っていた大英帝国は(例えば、ビルマ国王の皇女を、下っ端のインド兵の妾に与えることまでやった。)、たちまち日本軍に降伏した。フィリピンでは、あのマッカーサーが一度は敗れて、「アイ・シャル・リターン!」の名言を残して去っている。
日本の同盟国であったイタリアもドイツもすでに降伏しても、アメリカを相手に、実に6年間も戦争を続けることは、実際、戦争をしかけたルーズベルトさえ、予想もしていなかった。(註:アメリカはモンロー主義で参戦できなかったので、日本から仕掛けるように仕向けていた。真珠湾攻撃も事前に知っており、たいした被害は受けないと予測していた。それでアメリカ議会を参戦に転じるように用意周到であったが、予想に反して、真珠湾では甚大な被害をこうむった。)
余談であるが、マッカーサーは、日中戦争を起した日本軍を戦犯として、日本を悪者に仕立て上げた。マッカーサーといえば、士官学校での成績が平均98点の稀代の天才といわれ、大統領候補にもなった人物である。その彼が、戦後、ソ連・中国が朝鮮半島に介入してくると、日本の地政学上の立場を理解して、
「日本軍の行動は間違っていなかった。私の誤りであった。」
と、後に上院の委員会で述べている。このことは、心に留め置いてもいいかもしれない。
決め事を守る民族
日本人は、本質的に決め事を遵守する民族である。それが誇りであり、品位である。幕府が外国と結んだ『不平等条約』は、明治新政府は全部受け継いで、契約を遵守していたし、日露戦争などの膨大な戦費も、すべて返済している。ヨーロッパの戦争などは、戦費の返済など皆いい加減なもので、うやむやにしてしまうのが通例である。中国人は、契約通りに遂行しないのは常識といわれているが、日本人は契約を遵守するので、信用が高い。国民性の違いであろうか。
こんな話がある。ギブ・ミー・チョコレートと寄ってくる子供たちに、ジープの上から進駐軍がチョコやガムを投げ与えていた翌日、見知らぬ女性が尋ねてきて、
「子供がチョコレートをもらったお礼です」
といって、野菜か何かを置いていったという。これを知ったアメリカ人は、
「この国は、他とは違う。いずれ・・・どえらい国になる」
と、感服したという。
唯一の平等国家日本
国際連盟憲章では、世界人類は平和を希求し、人類は皆平等であると謳われている。だが、平等という概念には、日本人が抱くほど甘いものではないとの指摘がある。本当の意味で、日本ほど平等な先進国はないかもしれない、とも指摘される。
会田雄二は、次のような比較文化論を述べていた。
「ヨーロッパの国々は、みな身分制度がある。自動車でさえクラス車である。つまり、ベンツやBMWなどのクルマは上流階級が乗るものであって、庶民は他の安いクルマに乗ることが当然となっている。フランスでは一般庶民は大学に入ることを制限されるし、イギリスでは、貴族階級の学校と庶民の学校は明確に区別されている・・・・」等など。
一方、日本では学問ができれば誰でも東大に入学できるし、3畳ひと間の間借り人でも、フェラーリを乗り回すことができる。誰も文句は言わないし、当然の権利とも考えている。知ってのとおり、アメリカ社会はWASP(ホワイト、アングロサクソン、プロテスタント)の支配者階級とは、有色人種は同席できない暗黙のルールが、今でも厳然としてある。人類で最初に平等を唱えたアメリカの独立宣言には、「すべての人間は平等につくられている」と謳っているが、起草した人たちは皆、黒人奴隷を使っていた。
これが現実である。
レディ・ファーストの慣習は、「女に三界なし」とする封建時代の日本人と違って、欧米人は女性を大切にしてきた証(あかし)という人がいる。そうではない。レディ・ファーストは、女性を軽視してきたことへの反動的儀礼なのである。
今でも伝統と格式を重んじる会員制クラブは、原則女性の立ち入りを許していない。例えば昔から在るロサンゼルス・アスレチッククラブやニューヨークのアスレチッククラブは、女性は立ち入れない。私も一度、ロスのあるゴルフクラブでプレーしたとき、女性の従業員が屋外にはいたが、クリスマス以外は、女性は立ち入り禁止であった。マスターズのオーガスタも同様である。それが伝統であり、断固としてこの伝統を守り続けている。
これを封建時代の名残りとして、非難するのは簡単であるが、本質を見極める必要がある。日本の男(侍)は、一歩家を出たら「七人の敵が待つ」といわれる世界に身をおいている。だからこそ、外では欧米のように女性を眼中におかず、三歩下がらせて歩く。だが、いざとなれば、死をも厭わず全力で守る。その覚悟ができているし、お互い解っているから言葉に出さない美徳が、我われの伝統でもある。
確かにわが国においても、古来より支配階級(貴族)と非支配者階級(庶民)に分かれているが、例えば、万葉集などに収められている和歌は、天皇や貴族ばかりでなく、防人や庶民・乞食に至るまで、身分も男女の差別も一切ない。国民的歌集となっている。これが日本という本質を示しているのではないだろうか。
ともかく、日本人は本質的に善良である。奪い合いよりも、分かち合いを大切にする。「イエス」か「ノー」をはっきりと表明せず、争いごとよりも、人の和を重んじる。実際には、この穏やかで平和を遵守する我われ日本人に流れる血脈は、世界の中における日本人という観点では、あまりにはがゆいことが多過ぎるかもしれない。
しかし、前回紹介したように、ヒットラーもアインシュタインも、
「(地球の滅亡を救うのは)日本である」
ということを予言している。彼らだけではない。多くの霊的パワーを持つ偉人・賢人が、同様のことを書き残しているし、現在も「極東の島国日本が、世界人類の破滅を救うことになろう」という意味のことを指摘し続けている。
宗教的対立と日本人の宗教観
このことは、このような荒んだ世界情勢になるほど、真実味を帯びてくるように、私には思える。というのは、
世界の紛争・争いの原点は、人種的問題や経済的な問題もあろうが、イデオロギーの違いが、その根底にあることは間違いあるまい。近代文明は欧米文化を基盤としているが、その根本にあるキリスト教もユダヤ教も性悪説である。神の戒律を守ることが大切であるとして、ローマ法も規律に従わせることで、異国民を征服してきた。
今だに対立を続けるキリスト教文化とイスラム教文化は、共に自分の宗教観こそ唯一絶対であり、他の宗教を邪教と見なす本質的な対立がある。これは、未来永劫消えることはないかもしれない。
しかし、わが日本の本質的な宗教観は、『万物に精霊が宿る』とし、仏壇に手を合わせながら、神社に初詣に行く。クリスマスに教会に顔を出した帰り道に、鳥居をくぐるのに、何の違和感を持つことがない。一神教ではないが故に、偉人は神として祭られる。大宰府があり湯島天神があり、乃木神社もある。宗教的な対立が、本質的に存在しない素地がある。そもそも有史以来、天皇が『神』であったことは、一度もない。天皇は、国民の代表として、先祖の霊を祀るお方であり、この機能は大戦後も絶やされたことはない。
私が幾度も読み返してきた『波動の法則』では、すべての物質には「意思があり、思念がある」と指摘するが、まさに昔からの日本人は、天皇を代表として、万物に精霊が宿ることを実感してきたのであろう。
我われも講習を通じて、水晶のブレスレットなど、様々な貴石には、その人の波動に適応する周波数のものと、身に着けることを嫌がる貴石の意思を、幾度か目にしてきている。適応したものは、確かにその人をしっかりと守ってくれるかのようである。各々に適した貴石があり、すべての人に適応する唯一絶対的な貴石が存在するわけではない。
このようなことは、極言すると、唯一絶対の神の存在のみがあって、その戒律に従うことを正義とする文明とは、日本の本質的な宗教観は異質なものとなる。
我われの多くは、少なくとも我われ日本人の祖先は、自然をあるがままに愛してきた。神社仏閣は、『いやしろち』に建ち、鬱蒼たる樹木が茂る中に在る。だが、教会は壮大な建造物であっても、自然の中に建っているものではない。多くの大伽藍を見てきて感ずるのは、「人工的な匂いの強い、人間の造った荘厳な建造物の何者でもない」ということである。そこに自然の樹木などと一体化したものは、キリスト教にもイスラム教にも、少なくとも私が目にしたものでは皆無であった。
それは自然の中に在る
日本の神社仏閣は、古いままの『わび』『さび』をもたらすように、けばけばしく塗りたくることがない。古き伝統美を、現代風に塗り替えることもなく、古さをかもし出す。
かってブルーノ・タウトは、究極のシンプルな機能美として、『伊勢神宮』と『桂離宮』を絶賛して、日本美を再認識させた。私は、中国や韓国の一部の古い建造物しか見ていないが、異国の文化遺産を見るたびに、日本の文化に誇りを持った。日本人に生まれて、日本文化と外国の文化と対比して、
「日本人が残してくれた文化遺産は、実に素晴らしい」
と、心の底から思えるようになってきている。千年以上昔の文化では、例えば、伊勢神宮も世界最古の木造建造物の法隆寺も、今も生活に密着している。だが、ギリシャやローマの神殿や万里の長城などの文化遺産は、かって栄華を誇った時代の遺跡でしかない。わが国の文化遺産は今も自然に密着して「生きている」ことに誇りを持つ。
アメリカを畏怖していた頃のギブ・ミー・チョコレートの日本人観は、ほぼ脱却している現在、我われ日本人に脈々として流れている『自然と調和する遺伝子』を、再びオフからオンにしなくてはならないと思う。
環境破壊が地球を滅ぼすといわれている現在、好むと好まざるとに関わらず、世界が我われ日本人に受け継がれているこの遺伝子を、希求することは必然と思われる。
貴重な恥じらいの文化
日本では屋外の自販機が当たり前のようにあるが、諸外国では非常識なものである。あっという間に自販機ごと持ち去られるという。まだ、日本では一部を除いて、健全さは残っている。
昔、イザヤ・ペンダサンが『日本人とユダヤ人』の中で、金を借りて返せなかったときは、「皆の前で笑い者にされてもよい」という江戸時代の証文の話を紹介していた。「笑い者になるぐらいなら、死んだほうがましだ」という恥の文化は、武士道に通じるし、昔から泥棒はいたが、鍵をかけることもなく、扉に「自分が恥ずかしくありませんか」という意味の紙を張って封印していたという。
恐らくこのような文化を受け継いでいる国家は、日本以外には存在しないであろうし、人間の尊厳を高める教育以外に、このような資質を取り戻すのは不可能かもしれない。
つまり、我われ日本人の優れた文化・伝統を、西欧的な視点からただ批判するのではなく、今一度見直す必要があると思われる。
そして―――
我々一人ひとりの発する波動が高く、歪んでおらず健全なものであることが、地球にとって、間違いなく良いことであると思われる。
斥力と量子物理学
長くなった本稿の、まとめに入らねばならない。
我われの生きる宇宙には、反重力の『斥力』が働いている可能性がある、とされる。それは、真空中でコマを時計回りに廻すと、コマの落下速度が落ちることから発見された。この発見により、「ニュートン、アインシュタイン敗れたり」と科学雑誌では報道されたほどである。さて、
この斥力が働くと、どうやら次元の壁が破れるらしい、ということが解ってきた。5次元の世界から、よいエネルギーが入ってくるらしいのである。思念(思い)が波動でありエネルギーであることは、科学的に認識されており、量子物理学は非実体的な量子が、全宇宙を構成する根源的要素であることを見出している。量子は非実在でありながら、見ようとすれば凝縮して観察可能な実体となる二面性があることも、量子物理学は発見している。つまり、存在するすべてのものは、蛍光灯が点滅するように、実在と消滅を天文学的数値の速さで繰り返している、という。まさしく般若心経にある『色即是空、 空即是色』の世界観に一致する。その最先端では、我われの世界は他次元の投影されたものだという。エゴのない意識が高いほど、周波数の高い波動となり斥力も働くようだ、ともいう。
このことを考えるとき、自然界の中に住む動物の死骸を見たことがあるだろうか、という命題に突き当たる。例えば、「カラスの死骸を見たことがあるか?」というと、人間が関わったことや、何らかの事故以外で、カラスもスズメも、あるいはネズミでもゴキブリでも、実際にその死骸を見た方は、恐らくいないであろう。
自然界の動物は、必要な食糧にありつくと、それ以上は食べようとしない。人間や人間のテリトリーにいるペットや家畜を除いて、自然に死んだ動物は、『欲』や『執着心』がないので、消滅してしまうのだ、という。
合気道の植芝盛平開祖や大横綱双葉山などが帰依した大本教の出口王仁三郎は、このことを『屍解(しけ)』と呼んでいる。自然の摂理に反するマイナス波動(欲、執着心、嫉妬心など)の強い人間の死骸(肉体)は、当然消滅しないことになる。
結界を張ると(斥力が働くと)モノは腐らず、身体は歪まず、不思議な超常現象が起きるという。昔読んだ『ヒマラヤ聖者の生活探求』のなかで、人が横たわって結界を張ることによって、猛獣を近づけないようにして客人を守るといった記述が思い起される。一人の人が良い波動を出せば、周りはそれに感応して、良好な波動を出せるようになっていく。良好な結界が広がれば、やがてその中では、良くないものも良好なものへと変化していく。ホリスティック・コンディショニングを通して、我われは間違いなく良いことを行なっているので、その波動が投影されて、周辺に良好な結果を導いていくことができるであろう。
我われは、少なくとも、私は――天下国家を論じることもなく、ただ平々凡々に日々を生き、ささやかな幸せに浸ることで満足している。そして
◇ 生きていることの恵みに感謝し
◇ かけがえのない自分自身を誇りに思い
◇ 自分にとって最善の選択ができるようにし
◇ 今日の自分を、明日には超えようと励む
ことが、自分に課せられた今生での命題である―― と、思うようになってきた。
人には各々のポリシーがあって、生活も信条も異なるが、良い波動を出すには、こんな小さなことを心がけていてもいいのでは・・・・・・と、私は思う。
昔の自分であれば―――現在このようなことを書いている自分自身を、恐らく嗤うであろう。だが、そうすることができなかった自分の過去を振り返って、少しは良い波動を出せるようにしようと、自分自身でこのように戒めている今日この頃である。
完
註: 4回にわたる本稿の内容は、はじめにお断りしているように、私自身の興味を書き記したものであって、生体のコンディショニングには直接関わらないものであることを、今一度ご了解いただきたいと思います。お読みいただきまして、誠に有難うございました。
平成19年5月初旬 矢野 雅知