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コラム2

写真分析から歴史を考える

 不思議である。なぜ、そうなるのか、自分でも説明のつかない事象が起こる。言えることは、アドバンス・アカデミー・レベル(上級ホリスティック・コンディショナー対象レベル)になると、人をイメージしただけで、瞬時にその人の意識の断片を拾うことができるようになる。どこに問題をかかえているのかも感じ取れるようになる。また、まったく知らない人であっても、名前を書いて、それを見つめることによって、その人の身体のどこに問題を抱えているのかが、漠然とながらも解るようになってくる。なぜそうなるのかは、解らない。しかし、何人もの方々が出来るようになってきている。
 

 気功などにみられる『気』は、「エネルギーである」ということが、現在では科学的に確認されてきている。つまり、人のエネルギーを感じ、人にエネルギーを与えたり、採ったりすることはできる、ということも確かめられている。
 写真を見ることで、問題箇所を見出し、どんなメンタル・ストレスに煩わされているのかなどは、ある程度までなら分析可能である。
 このような事象は、本協会のアドバンス・アカデミー講習で行うことがある。通常のプログラムを跳び越えて、参加者によってはマスター・レベルの内容に入ってしまうことがあり、実際にアドバンス参加者も行っているものである。


 このように書いてくると、何だか宗教団体のようでいやなのだが、体験されていない方は、確かに
「そんな、馬鹿な!」
と思われて当然である、と思う。
 しかし、セミナーや特にアカデミーで頻繁に私どもの気に同調されて潜在能力が開発されてきている方は、古来より云われているチャクラが開き、見えないものに反応するようになってくることは間違いない。現代的に言えば、その種の遺伝子がONとなってきていると思われる。
 遺伝子のDND(人体は30億あるという)については、ノーベル賞候補ともなっている村上和雄名誉教授の研究が注目に値する。人間の遺伝子はわずか数パーセントしかONになっておらず、90パーセント以上はOFFのままであるという。言い換えれば、全ての人は多大な潜在能力を持ちながら、それを活かしきれない状況にある、ということでもある。その一部の気エネルギーなどに反応する遺伝子がONになってくれば・・・・・これについては、いずれ稿をあらためて記したいと思う。


 さて、今回のテーマは「写真分析による日本の裏面史」である。何やらいぶかしいテーマである。初めにお断りしておきたい。これは、私の妄想によるものである。したがって、私自身は真面目に筆を進めるが、内容は冗談半分であることを、肝に銘じて忘れないで頂きたいと思う。
 さてさて、荒唐無稽な日本裏面史の始まり、始まりィ。


明治天皇南朝説
 通常、表に出てこない裏面史には、驚くべきものがある。そのひとつ、明治天皇は入れ替わったという説は、いまだに根強く残っている。それに関する書物はタブーであったはずだが、やはり伝わってくるのであろう。例えば、歴史小説家は詳細に事実関係を調査した上で、独自の見解を交えながら作品を仕上げている。司馬遼太郎の幕末や明治維新に関わる小説などは、実によく調査をしているので、当然そのあたりの事実関係は掴んでいたであろう。歴史の専門学者であれば、なおのこと知りえていたと思われる。だが、知っておりながら、あえて裏面史には手を染めなかったのであろうと推察される。
 我々は坂本竜馬の仲介で、薩摩の西郷隆盛と長州の桂小五郎(木戸光因)が手を結び、薩長連合が成立して倒幕に至った、と承知している。当時、犬猿の仲であったはずの両者を和睦させて倒幕に向かわせた立役者は、坂本竜馬をおいて他にはないと思われていた。だが、その仲介には英吉利人のトーマス・グラバーの影が見え隠れしているのである。それだけではない―――
 長州は南朝天皇の末裔を密かに匿っており、西郷隆盛の祖先は南朝に使えた側近の末裔であったことから、正当な血筋の絶えた京都の天皇(北朝)を廃して、南朝の正統な血筋を引く天皇をたてるために、蛤御門の変を通じ敵対関係にあった薩長が手を結んだのが真相である、とされる。
 正当な血筋が絶えた―――とは? 私の戯言にもう少しお付き合い願いたい。


 ご承知のように、建武の新政が失敗に帰した後醍醐天皇は、足利尊氏に追われて吉野に逃れ、尊氏は光明天皇を京都に擁して60年に及ぶ南朝と北朝(京都)の南北朝時代に突入した。この天皇家の紛争は足利義満の代のとき、南朝の後亀山天皇が京都に戻ることで解決した。
 これは表の歴史である。正統の天皇家の争いはその後も長く水面下で続いており、一部の歴史学者は、さらに数百年間にわたり南北の対立構造は持続していた、と指摘している。南朝の正統性は絶えたとされながらも、実は長州藩では密かにその血筋を匿っていた、というわけである。
 一方、正統の北朝(京都)の血筋は、孝明天皇の時にはすでに絶えていたともいわれていた。


大義名分と歴史の裏側
 では、なぜ幕府対薩長の対立構造に、日本国全体が傾斜していったのか?
 言うまでもなく、天皇はわが国古来の最高のシンボルであり、天皇を担ぎ出した薩長に抵抗すると『朝敵』の汚名を着せられるからに他ならない。
 朝敵―――後醍醐天皇と対立した足利尊氏は、今でも『朝敵』としての汚名をぬぐえないでいる。兵を挙げる大義名分がなかったことが、後代まで響いていることは確かであろう。
 翻って、関が原の戦いで天下を分けることになった徳川家康ですら、最高位の『関白』を授けられた豊臣に対抗するために、武士の最高位である『源氏頭領』の称号を朝廷から授けられるまでは、ジッと長年にわたり辛抱していたのである。秀吉と家康が対峙したとき、家康が『源氏頭領』の称号を授かっていたら、他の大名も味方に出来たであろうが、この時点ではその大義名分バックボーンがなかったことを、歴史学者は指摘している。


幕末維新とは英吉利と亜米利加の利権争い
 さて、幕末の裏面史にはまた、幕府をおすフランス・アメリカと薩長をおすイギリスの闘いでもあったことは周知のとおりである(その後の大戦までも、イギリス対アメリカの利権争いがその背後にあるとされている)。勝海舟と西郷隆盛との肝胆相照らす交渉から、江戸城無血開城となったが、勝海舟は『氷川清話』の中で「その気になれば、まだまだ幕軍は十分に戦える策略もあったが、西郷の赤心に打たれて開城したのさ」と語っている。
 で、京都から薩長軍と共に天皇が江戸城に入ったが、このとき、南朝の正統の血筋となる明治天皇が入れ替わった、とされている。実際、それ以前には北朝が正統で南朝はまったく無視されていたが、伊藤博文などは後に「南朝が正統である」と述べているように、維新後変化したのは確かなのであろう。それ故、後醍醐天皇にたった一言
「頼むぞ!」
と言われた言葉に感じ入って、南朝のために最後まで闘った楠正成の銅像が、皇居の横に在ることが理解させられるのである。


西郷隆盛の写真は語る
 西郷隆盛―――魂を抜かれるといって、決して写真に撮られていないことで有名であるが、今までも幾度となく「この写真の人物がそうではないか?」という議論が起きている。少なくとも、上野の西郷像は、落成式に出席した奥方が「まるで似ていない」と言ったのは、有名な話である(像は、西郷隆盛の実弟西郷従道を参考にしたという)。


 さて、ここからが本題である。ホリスティック・アドバンスのレベルでチェックを続けていくと、テレビの画面に映る人物の問題点やメンタル・ストレスまでもが分析できる。それと同様に、写真を見て問題点を分析することが可能となってくる。
 私自身、携帯電話で撮影された人物を幾度も分析を行ってきた。意識を集中するので疲れることから、積極的に行うことはないが、この1枚の写真には釘付けとなった。
 長崎のグラバー亭に行かれた方なら感慨深いであろうが、イギリス人トーマス・グラバーが指導した44人が会した写真が残っている。中心に、坂本竜馬、大久保利通、横井小南、岩倉具視、桂小五郎、高杉晋作、大村益次郎、伊藤博文はもとより、勝海舟まで幕末維新を生きたほとんど全ての著名人がそこにいる。現存する写真は1枚もないのではないか、といわれている西郷隆盛も従道と共にそこには居る。ただ、岩倉具視にしても他の面々の顔は全て若い。500円札で拝顔するよりもグッと若い時のものである。坂本竜馬も勝海舟なども、我々が見知っている顔とまさしく同一人物と判断される。
 その中に、後の明治天皇となった人物の姿も見える。その顔かたちは、髷を切る以前の、明治天皇の若いころのお写真と同じに見える。

    

    

 さて、西郷隆盛とされる人物は本物か否か。写真の分析をした。結果、本物と私は判断できた。客観性を持たせるために、第三者に私の指を写真上に当ててもらいながら、私はどこに当たっているか解らないようにして、それぞれをチェックしていったが、やはり同様の反応が出る。西郷隆盛である、とするし、恐れながら明治天皇その人である、と写真は示していた。


本来、京都御所の奥深くに鎮座まします後の天皇が、イギリス人グラバーの指導を受けながら、まだまだ身分が低かったであろう幕末維新の、ほとんど全ての立役者となった面々と一緒に写真に収まることなど、常識ではありえないであろう。いや、この写真が在るからこそ―――
 幕府側の勝海舟の弟子となった坂本竜馬が、グラバーのアドバイスにより海援隊を組織し、日本初の株式会社亀山社中を起こして、短期間で大事業を成し遂げる礎をつくったことが理解される。
 それはまた、維新の大改革を成就し、その後の日本を瞬く間に欧米列強と肩を並べるまでに導いた人物達が、若い頃に天下国家を論じたグラバーを囲む仲間であったからこそ、その大事業を成し遂げることができた、と私は思う。
 ということは、冒頭のべた噂に過ぎない裏面史の信憑性が高まってくる。いずれ真実が解明される日がくるであろうが、まず写真によってあなたも確かめられることを期待します。


 以上は、私矢野雅知の戯言に過ぎないことを、あらためて申し添えておきます。

                  平成16年10月中旬 矢野 雅知