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コラム40

芸術の本質と霊的エネルギー 1

コラム17「ダヴィンチ・コードの謎に挑む」において、レオナルド・ダヴィンチの描いた全ての作品は、たとえそれがデッサン画であっても、
●ヒトの臓器の存在までが描かれており、内面の心情までも分析し得る。
 ことを指摘した。
 これは、写真で撮った画像から分析するのと、同じ感覚である。
「手」だけが映っている写真からでも、その人の臓器の状態をチェックすることができる。驚いたことに、「手のデッサン画」などの身体の一部を描いたダヴィンチの作品からは、その人物の内面までアプローチすることが可能なのである。

 だが、
同時代の一方の雄、ミケランジェロの作品からは、臓器の存在はおろか、有名な『天地創造』図でも、ヒトの内面までキャッチできない。あくまでも表面的な「絵画」としての作品にしか映らない- - - ということを指摘した。
 これは、ミケランジェロの彫刻家として作品も同様で、内面の心情が捉えられない(表面の形状が心情の内面を顕わしているに過ぎない)- - - ということも指摘した(だが、後世のロダン『考える人』の作品などは、内面の苦悩が、そのレプリカであってもキャッチできる)。


 国外ツアーの楽しみのひとつに、美術館に立ち寄ることがある。昔は写真がないので、当時の貴族は自画像を何枚も画家に描かせている。優秀な画家であっても、自分が本当に描きたいのは、「写真の代用」としての人物画ではないから、貴族から発注された『宗教画』や『人物画』には、それほど注目すべきものがない、というのが実態のようである。

 その画家が、人の評価を意識して、仕事として描いた作品よりも、本人の純粋な意思で描き込んだ作品(第三者の評価を無視した作品)にこそ、感銘を受けることが多いようである。
 私事で恐縮であるが- - - 自分が小学生の時に、ゴッホ展が上野で開催されて、なぜか非常に感銘を受けた記憶がある。その時の作品集の本を購入して、自分の作品を展覧会に出品していた学生時代頃までは、暇さえあればそれを見ていたものである。

ヴィンセント・ファン・ゴッホは、生涯で絵が「たった1枚しか売れなかった画家」である。生前は、全く評価されなかった。自分が描きたかった作品しか残していない。
彼の死後、58億円で『ひまわり』を日本人が購入することになろうなどとは、生前には予想もできなかったであろう(他に124億円で落札された作品もある)。

彼は37歳で精神病により自殺しているが、精神を病んでいくほどに、「うねり」や「渦巻き」が大きくなっていったといわれている。その中でも、私はこのうねりの大きな『星月夜』が好きである。
ゴッホの『星月夜』 ゴッホの『星月夜』
ゴッホは、売らんがための絵画を描いていない。人に媚びることがなかったので、自分の精神状態をその絵画に込めていたといわれるが、自分の耳を切り落とし、精神病院にも入院しているので、確かに精神は病んでいたのであろう。
だが、病んだ精神が正常になった状態- - - おそらく降臨した状態で、この絵は描かれたと推察される。この『星月夜』の絵は、「うつ病」や「自律神経失調症」のような状態にある方を、癒してくれる効果がある- - - と、思われる。
そのような状態にある人を、この絵画の中に注入すると、総ての邪気が抜け落ちしてしまう。
だから、邪気で霊体が歪みやすい方は、この絵のレプリカを飾っておくことをお薦めする。部屋に飾っておけば、邪気を吸収してくれる力が、この絵にはある、と思われる。


 さて、
ダヴィンチが死の直前まで筆を入れ続けた- - - という作品『洗礼者ヨハネ』は、モナリザを超えた人類の最高傑作である、と思われる。
 この画像を人の眼の中から体内に注入してやると、その人の体軸が正常化する。霊障で邪気っている人の体に入れると、見事なまでに邪気が抜け出てしまう。
 もし、このような表現が許されるのであれば- - - 『洗礼者ヨハネ』は8次元につながる人類の生んだ最高傑作のひとつである(と思う)。

『ダヴィンチ・コードの謎を解く』のコラムに記しているが、ダヴィンチは、「マグダラのマリア」崇拝のシオン修道会の20代目の大司教(長官)であった。アイザック・ニュートンも後世の大司教であり、文豪ビクトル・ユゴー(第32代)、音楽家クロード・ドビッシュ(第33代)なども、この秘密結社の長官であったという。
このことは、ダヴィンチが霊的な世界に関わった人物であったことを示している。だからこそ、高次元にコンタクトできる能力があった裏付けである、と推察できるのではないか。

 『洗礼者ヨハネ』の絵をペンダントにして首にぶら下げておけば、体軸確保の役目を担ってくれるであろう(憑依体質の人は、小さな写真でも身につけておくことを薦める)。
『洗礼者ヨハネ』:天才ダヴィンチの最後の作品。

 この絵に匹敵するものは、ダヴィンチ本人の作品- - - 『モナリザ』『最後の晩餐』などでも- - - 見当たらない。これらはどれも、3次元(現生)における絵画としての価値である(と思う)。
だが、『洗礼者ヨハネ』は、高次元(8次元)のエネルギーに包まれている反応を示している。これは- - - ダヴィンチ自身が、8次元にコンタクトして、そこからのエネルギーを受け取っていない限り、このような絵画を描くことは、おそらく不可能であろう。
『洗礼者ヨハネ』は、間違いなく「生きている絵画」である。高次元の生命体エネルギーが宿っている絵画である。これほどのエネルギーを宿している絵画は、現時点では欧米には見当たらない。わが国であれば、宮本武蔵の水墨画が思い浮かぶ程度である(その観点で看ていけば、まだまだ他にも高いエネルギーの絵画が、見出せるのではないかと推察される)。

 天才とは、高次元にコンタクトして高度な文明からのヒントを得ることができ得る人物- - - として定義されるのであれば、ダヴィンチの天才的な発想・発明は、高次元にコンタクトしてもたらされたものであることは、容易に想像できる。
で、あれば、ダヴィンチは、高次元にコンタクトした状態で描きこんだ絵画があっても、何ら不思議ではないであろう。いや、高次元にコンタクトしなくては描き切れない作品を、彼の最晩年になってようやく完成することができた・・・・と、解釈した方がよいのかもしれない。私には、そのように思われる。

 せっかくなので、宮本武蔵の作品について触れておきたい。
宮本武蔵の『枯木鳴鵙図』
 武人としての、武蔵の名を知らぬ人はいないであろう。「一芸を極めると万芸に通じる」といわれるが、武蔵の残した水墨画の評価は高い。
 あるとき、渡辺崋山が街中を歩いていると、もの凄い『気』を感じるので、周囲を見回したが何もない。どこからこの気が発散されているのかを探っていくと、古道具屋に古びた水墨画の掛け軸があった。ここから、強いエネルギーが出ており、それが武蔵の作品であった・・・・という逸話が残っている。

この『枯木鳴鵙図』からは、「金剛夜叉明王」のエネルギーが感知される。「金剛夜叉明王」と一体とならなければ、このような水墨画は絶対に描けないであろう、と思う。
現代アートの巨匠、マチスの美術館がバルセロナに在る。何とも(私にとっては)つまらないところであったが、そのマチスは一本の線を描くのに、
「この線を描けるようになるまで、三十年もかかった・・・・」
と述べている。
そんな巨匠に、我が日本の心身を極めた武蔵の作品を、「見せてやりたかった」と思う。
マチスの三十年は「線を描くための三十年」である。だが、神我一体となって、絵筆にエネルギーを魂入でき得る「人物」たるべく武蔵の三十年とでは、絵筆を通して込められるエネルギーレベルに、「絶対的な相違がある」と、思われる。


 ところで、
 オーストリアのウィーンには、ヨーロッパはおろか全世界にその影響を及ぼしたハブスブルク家の宮殿に付随する美術館が、いくつも存在する。そのなかのある美術館に、不可思議な絵画があった。
 その絵画は、人が横に歩いて行くと、常にその絵に書き込まれた人物の視線が追い続ける- - - というものである。人物像に書き込まれた瞳から発する視線が、どの位置から見ても、その『眼』で見つめられてしまうのである。
 なぜそうなるのかは、現在でも解明されていない。

自分流に解釈すると、その絵に書き込まれた眼は、「4次元世界」が映しこまれている- - - と、思われた。その絵から、『霊気』が強く発散していたからである。
その霊気は、悪魔的なエネルギー体に取り憑かれた画家が、絵の人物の眼にそのエネルギー体の波動を転写しており、これをジーっと見つめると、その霊体が入り込んでくる- - - と思われた。
思うに、その悪魔的なエネルギー体が画家に乗り移って、その絵を見つめた人に、次々と入り込んでいく・・・・こんな思いに捉われた。
その美術館では写真撮影禁止のために画像が残っていないが、その絵の視線を合わせていた人に、次々と霊体が憑依していくことに、気がついたのである。

 眼といえば- - - 通常の「人物写真」であっても、その写真に写りこんだ「人」が、憑依されている状態にあるならば、敏感な人はその写真(画像)の「眼」を注視すると、その憑依している霊体(エネルギー体)が入り込んでくる。
 したがって、たとえ写真であっても、「いやな感じ」「違和感」を持つようであるならば、決して眼を注視しないほうがよい- - - と、思われる。
 ところが、
● 人と話をするときは、相手の目をみて話すのがよい。
● 人と話すときに視線を逸らせるのは、失礼である。
といわれている。
 とくに、社交マナーを学ぶ講座などでは、このことは基本中の基本として指摘されることである。

だが、私は昔から人と視線を合わせることは避けてきた。無意識のうちに、視線から相手の霊体(エネルギー体)が入り込んでくることを避ける傾向があった。昔は、相手と視線を合わせたがらない自分に疑問を持ったことがあったが、今では納得している。
過去生における無意識下の記憶が、そのようにさせているようだ・・・・と気がついてから、「相手に対して失礼だろうな」と思いながらも、平然と視線を外して対話するようにしている。


4次元は、幽界・霊界レベルである。いわゆる「黄泉(よみ)の国」でもある。多くの人が、この4次元レベルのエネルギー体に憑依されている- - - と思ったほうがよい。霊体が完璧にクリーンな人の方が、圧倒的に少ない。
 この4次元レベルにも、幾層もの段階があるのであろう、さまざまなレベルの憑依霊が、霊体を歪めている- - - ということは、肉体レベルだけではなく、少しでも霊体レベルにアプローチする人であれば判るであろう。
そのような観点で絵画などの芸術作品をみていると- - - 画家本人が、強いエネルギー体に取り憑かれていると、それが、絵画という画像の中に封印されてしまう- - - ように思われる。

 この絵画は、ボッティチェリの有名な『ヴィーナス誕生』である。
 海から誕生した美と愛の女神ヴィーナス。輝くばかりの裸身を恥じらいの仕草で隠した女神は、帆立貝の貝殻に乗って現われたところである。
女神の身を運ぶのは優しい息吹を吹きつける西風の神ゼフュロス(左側)。また彼の妻である花の女神フローラも愛しい夫に抱きついてともに空を駆け、ヴィーナスの聖花である薔薇を辺り一面にまき散らしている。
西風に吹き寄せられて女神が流れ着いたのはキュプロス島の浜辺とされる。上陸しようとする女神を、季節の女神ホーラ(右側)が出迎え、華麗な紅の衣裳をその身に着せかけようとしている。
高貴な女神は神々の集うオリュンポスへと昇っていく- - - とされる。

 女神の裸身を描くのは、その当時は「異教」とされ、彼の作品はほとんどが焚書となっているが、この作品だけはメディチ家の当主の計らいで難を逃れた- - - とされている。

 私が時々行くファミレスに、この絵が在る。それを見ていて、次のことに気がついた。
● 中心に描かれる「裸のヴィーナス」は、高次元のエネルギー体が描きこまれており、左側の「西風の神ゼフュロス」も特に問題はない。
● だが、ゼフュロスの妻「花の女神フローラ」は、4次元レベルの霊体(エネルギー体)が描きこまれている。『堕天使ルシファー』のエネルギーが反応している。
● つまり、悪魔(サタン)のルシファー(堕天使)の「眷属」が取り憑いている。
● また、右側の「季節の女神ホーラ」には、4次元眷属の我々がいうところの「キツネ系」の霊体(エネルギー体)が取り憑いている。

ボッティチェリがこの絵画を描いているときには、それぞれの霊体(エネルギー体)が彼に取り憑いており、そのエネルギー体が封印された- - - と、思われる。


 学生時代に、モナリザの絵から「ダヴィンチは、エディプス・コンプレックス(通称ファザコン)であった」と、フロイトが精神分析学の立場で指摘していたのを読んで、小さな興奮を覚えた記憶がある。
 それから数10年経った現在、その絵画の持つ霊気から、作者の心身の状態が- - - 自分の主観ではあるが- - - 分析できるようになって、小さな興奮を覚えている。
 というのは、その絵画の霊気から、画家自身の心身の状態を分析することができる、という感触があるからである。さらにいえば、画家自身が辿ってきた人生の軌跡にも、踏み込むことができそうな気がする。

 このように、霊的な観点から絵画を眺めていくと、名画といわれているものの背後に潜むエネルギーレベルによって、神界に誘(いざな)ってくれるものもあれば、魔界に落とし込まれてしまうものもある、と気づかされて、いやはや何とも興味が尽きない。

2010年8月末日記