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コラム38

歴史を考える 2(プロローグ&戦国乱世)

 「写真分析から歴史を考える(コラム2)」を書き記してから、およそ6年近くが経った。この間だけでも、講習を通して、多くのことを学ばせていただいた。
 そして- - -
 今では次のことを、明確に「確信できる事象」として捉えることができる。
□ 写真という画像の中には、そのヒトの生死に関わらず、そのヒトの霊体(エネルギー体)が写し込まれる。
ということである。
 つまり、
● その写真に写る人物が、死んでいても生きていても、その人物の霊体(エネルギー体)は、その画像の中で『波動』として捉えることができる。
● その人物の中に写し込まれている霊体から、その人物の人生の記録をたどる事ができる- - - と、思われる。
● 霊体に直接アプローチすると、虚言が介在しないように思われる(本人の意思にかかわらず、真実を捉えることができる- - - ようである)。

このようなことが、現在では解っている。
 アドバンス・アカデミーでは、実際に身体を修正する実践能力を高めることに主眼を置いているので、実践能力養成のためのモデルとして、今までに数多くの人物を転写してきた。
 その人物の霊体を転写して、その人物になりきってしまうと、内面の感情エネルギーまで転写してしまう。

 例えば- - -
 ある女優を参加者全員に転写して、その女優の身体の問題箇所を探し出して、それを修正する- - - ということがあった。
 このとき、転写された彼女は、明確に「夫」への生理的な拒絶反応を示していた。この状態では、夫婦生活は完全に破綻しており、離婚は避けられない状況にあることが理解された。
 その具体的な原因のひとつも導き出されていた(ここまでは言及しなかったが・・・・)。本人に芸能記者がインタビューしても、あるいは親しい友人であっても、決して話すことのない内容である。
 たまたま参加者の要望から彼女を対象に選んだわけであるが、芸能人であれば、常に衆人環視の中での私生活を余儀なくされる。外部に見せることのない心の葛藤など、誰にでも人に知られたくないプライベートがある。

 だが、霊体(エネルギー体)を転写すると、その霊体から、かなり踏み込んだエリアまで侵入することは可能である- - - と、思われる。
 肉体レベル(脳)でのアプローチでは、限界があるのではないかと思われることでも- - - 例えば、脳波で探る一般的な機器(嘘発見機など)では正確に捉えられなくても、霊体(エネルギー体)レベルに踏み込んでいくと、本質に迫れるように思う。このことは、きわめて大きな意味を持つ- - - と、私は考えている。

 しかしながら、
 「プライベートに関わることには、通常は踏み込んではならない」という暗黙のルールがある。興味本位で、その人の心の内面までにはアプローチすべきではない。
 それは- - -
 マイナスの想念を持ってアプローチをすると、そのマイナスの想念が、自分自身に跳ね返ってくる。興味本位で、相手の心の深奥部に踏み込めば、自分自身の想念にダメージを与えることになってしまうからである。

 実践現場においては、
 モデルとして転写する場合は- - - 問題箇所の修正をして、そのモデルとなって頂いた方を、より良い状態にして再び『転送する』ことで、マイナス波動が跳ね返ってくることがないようにしている。
 因みに- - -
 その女優は1ヶ月以上経って、突然離婚が報じられ、マスコミの話題をさらった。離婚原因に様々な憶測が乱れ飛び、本人の弁として語られた背後にある真実(と思われる)には、当然ながら一切触れられることはなかった。

 さて、
 身体の歪みの原因を追究していると、その人の「身に着けているモノ」や「
身の回りにあるモノ」の波動に、何らかの影響を受けていることが、よく浮き上がってくる。
 「これは、形見として頂いたものです・・・」
 といって、自慢げに高価な指輪をしている方の体調を崩す原因が、その指輪であったことなど、実例を挙げれば切りがないほどある。
 元の持ち主の念エネルギーが強く入り込んでおり、その持ち主の身体の歪みまで、転写されてしまうのである。

 家具にしても着物にしても、他人が使用していたものであれば、その人の「念エネルギー」が付着しており、宝飾品のように思い入れが強くなるほど、その人の霊体(エネルギー体)が強く浮き上がってくる。
 言い換えれば- - - その物体の中に、霊体(エネルギー体)の憑依現象が現れる。
註:他人が使用したものは、常に浄化することを薦める(浄化方法は別途)。

 ここに1本のボールペンがあったとする。そのボールペンには、その持ち主の現在の霊体(エネルギー体)がつながっている。だから- - -
 そのボールペンから発する波動にアプローチすると、その持ち主の「身体の状態」や「どのような思考」をするのかなど、様々なことを(ある程度は)知ることが可能である(と思う)。

 コラム31(生体エネルギー循環と体軸その2)で触れた『ヴィジョン』の著者トム・ブラウン・ジュニアは、足跡から犯人の人物像や思考方法などを探り出して、追跡して未解決事件を解決に導いているというが、訓練すれば、これは可能であると思う。
 また、
 以前、FBIの元捜査官ジョン・マグモニーグルが、TVで幾度もその人物の遺留品から現在の住処を追跡していくことが放映されたが、これも訓練すれば、ある程度までなら、彼が言うように「誰でも可能である」と思われてくる。

 実際に、
 アドバンス・アカデミーの中では、『その人の氏名(固有の波動が存在する)』や『脳が描く人物のイメージ』でも、あるいは『持ち物(所有者の念エネルギーが入っているモノ)』など、そこから他の物体(多くは骨模型)に転写して、その人物にアプローチすることを、当たり前のように行なっている。
 実態を知らない第三者からすると、それは異様な光景に写るかもしれないが、参加者(実施者)は当然と思っているので、全く違和感はない。

 この状況を見知っている方は、
□ 転写された人物の感情や思考などは、ベールで覆い隠すことができない。真実が伝わってくる。
と、言い切ってしまうことに、それほどの抵抗感はないと思われる。
 そして、
 このことは、その人の生死を問わずに行なうことができるようなのである。
 つまり- - -
□ 過去の人物を転写して、歴史的な解釈とは相違する『虚言(ウソ)のない真実』を導き出すことは、可能である。
 と、思われる(実際に実体験している方は、このことに同意していただけると思う)。

 ここで明確にしておきたいことは、
□ 霊体(エネルギー体)の転写は、『時間』『空間』にとらわれない。
 ということである。
● 現代の量子物理学は、同時に同じ人物が、『時間』『空間』を越えて、存在し得るということを、論理的に証明している。

 解りやすく言えば- - - 我われが当たり前のように行なっている『霊体(エネルギー体)の転写』は、この3次元での本体(その人の肉体)がどこにいようが、同時に他の場所にも霊体(エネルギー体)は存在する- - - ことが可能であり、
● 転写された物体に存在する霊体(エネルギー体)を修正することで、その人の本体(肉体)も同時に修正される- - - ということである。

 さらに言えば、
● 過去の人物であっても、現在の物体にその霊体(エネルギー体)を転写することで、その過去の人物の思考の内奥にアプローチすることは、可能である。 
 ということである。

 霊体(エネルギー体)の転写は、その固有な『氏名』でも『その人物の念が入り込んだモノ(衣類や愛用品など)』など、特にこだわらないが、『写真』が最もその人物のエネルギー波動を捉えやすいように思われる。


 さて、
 歴史上の人物において、我われは『伝記小説』やその人物に関わる『文献』などに影響されて、固定観念でそのような人物を捉えがちである。
 だが、「もしかしたら・・・・・実態は違うのではないか・・・」と思われることが、実に多いように思われる。「事実は、小説よりも奇なり」とは、よく言ったものである。
 例えば- - -
 昨年(2009年)のNHK大河ドラマに、上杉謙信が登場したが、
□ 謙信は、実は女性であった。
という説が、昔からある。
 その根拠は、
□ 謙信は、毎月1回体調を崩して閉じこもっていた。これは、女性特有の生理があったためである。
 というものである。
□ その他にも、残された女性的な筆跡や衣装など、女性説を裏付ける資料は少なくない。
□ それに、女性が国の主(あるじ)となる例は、他にもあって、決して珍しくなかった。だが、徳川の時代になると女性城主は認められないことから、改易の口実となることを恐れた上杉家は、謙信女性説を裏付ける全ての資料を処分した、ともいう。

 本当だろうか?
 試しに、『越後の上杉謙信』で呼び出して、日本史上において空前の大合戦といわれた第4次の川中島の戦い(川中島では、12年間に及ぶ計5回の戦をしている)の『時』に定めて転写してみた。
 すると
□ 守護神である闘いの神様「毘沙門天」が降臨している。降臨しているので、完璧な体軸を示す。
□ だが、休息時で診ると、身体は『水脈』の影響を受けて、ブレている。
□ 胸椎10番右に、慢性的な変位があり、これが右の胸鎖乳突筋に反射して、複雑な反応を示している。
 ここは- - -
 ホモやレズの傾向を示す部位でもある。だが、違和感が認められるのでチェックすると
□ 謙信には、男性器が認められず、卵巣の存在は認められる(子宮は不鮮明な反応である)。その卵巣も、右側は活動しておらず、左卵巣のみが機能している。

 謙信は、「生涯不犯」を誓い、闘神の毘沙門天に帰依した武将である。そのためなのか、義を貫いて、無益な戦いは一切せず、生涯を通じて一度も負けなかった稀有の武将の一人である。
 その謙信が、不倶戴天の敵とも謂われる『武田信玄』と、川中島で幾度も死闘を演じている。
日本の合戦史上最大の死傷者を出した第4次川中島の戦いのときは、長く対峙したまま動かなかった信玄が、夜陰に乗じて密かに兵を動かした- - - 後に、頼山陽が「鞭声粛々夜河を渡る」との、有名な漢詩を残しているときだ。
 謙信はそれを察知して、史上空前の大激戦となった。

 このときの武田信玄にも、毘沙門天が降臨している。信玄もまた、毘沙門天に帰依した武将の一人であったからだろうか・・・・。

 時代文献(逸話集など)や小説などでは、意を決した謙信自らが、信玄の本陣に攻め込んで一太刀浴びせたクライマックスが描かれている。このときの銅像なども在って、このことは広く知れ渡った話である。
 この点について両者の霊体(エネルギー体)にアプローチしたが、それを肯定する反応は得られなかった。やはり・・・後代の作り話か。

 謙信が、不倶戴天の敵とも謂われた信玄に「敵に塩を送る」話は、外国の教科書にも紹介されたが、武田信玄が京に上洛する途上で引き返し、死んだと報告を受けたとき、謙信は食事中であったという。
 静かに箸を置くと、
「・・・そうか・・・、惜しい男を失ってしまった・・・」
 と黙想したと伝えられている。
 このとき、
「今こそ、甲斐に攻め込む絶好のときです・・・」
 と臣下が進言すると
「勝頼(信玄の息子)は、父が亡くなって悲嘆にくれていよう。そんなときに攻め入って、何になる(義に反する)」
 と、臣下を諌めたとも、伝えられている。

 これについては信玄もまた、生前に息子の勝頼に
「わしに何かあったら・・・越後の謙信を頼れ・・・」
 と、言い残していたと云われている。

 このように、両者ともお互いを認め合っていたが、霊線をチェックすると
□ 霊線が、かなりの本数で繋がっており、過去生での縁が深い『ソウルメイト』の反応を示す。
 つまり、
 両者は魂のレベルで互いを認識して、互いの心の内面においては通じ合っていた- - - と私には思われる。

 ついに両者は雌雄を決することなく、そして、万全の状態で、織田信長を討つべく上洛する寸前- - - 信玄はその途上で、謙信はその軍を動かす直前で亡くなっている。
 織田信長- - - 信玄と謙信の実力を知るが故に、彼は両者を心底恐れていたと云われるが、時代の波が彼に味方した。あと数ヶ月- - - いずれか一人でも生きていたら、信長の運命も変わっていたかもしれない。

 信長も武将であるから、闘神毘沙門天を奉じていたと伝えられているが、信長には毘沙門天は降臨しないようである。
□ 今川義元との桶狭間の戦いのトキにセットしてみると、信長には『聖天』のようなエネルギー体が降臨している。

 信長にとって、桶狭間は絶体絶命の状況であったが、奇跡的な勝利を得た背景に、紀伊国屋文左衛門や岩崎弥太郎などの守護神に近い霊体が入っている。
 次に、後世においても物議をかもしている『比叡山焼き討ち』を命じたトキにセットすると、
□ 『金剛夜叉明王』が降臨している。
 金剛夜叉明王とは、本来は人を襲っては喰らう魔人であったが、大日如来に帰依して、悪人のみを喰らう北方の守護神となった。戦勝祈願の守護神であり、多くの武人に崇拝されている。


 さて、
 本能寺の変で、信長は明智光秀に討たれたが、信長の死体は見つからなかった- - - とされている。
 これについては、信長の霊体エネルギーは反応しないので、明智光秀の霊体エネルギーを呼び出してチェックしてみると、予想外の反応を示していた。
□ 信長の死体は、見つかっている。
 という。
 なぜ、「見つからなかった」・・・・としていたのかというと- - -
□ 「信長を討て!」との命が、朝廷(天皇)から光秀に発せられたからだ。
 と、いう。
□ 信長の遺体は、密かに朝廷(京都御所)に関わる公家に差出し(検分を受けた)、その後の経緯には、光秀は関与していない。
 と、いう。
 つまり、
 朝廷にとっては悪魔的な信長の遺骸は、朝命によって秘事となる儀式(咒法)で、その霊魂を封印したものと思われる。これは、決して表に出せない最高機密のものである。
註:後に天下を獲った秀吉は、信長の法要を大々的に行なっている。

 信長は、本能寺の変が起きる直前に、自身が天皇家を廃して、日本を統治せんとするために、「元号の改易」を朝廷(天皇)から取り上げようと迫っていた。これは、わが国の根幹を揺るがす大事件であるが、後世あまり触れられていない。
 今でも「朝敵」の汚名が消えない足利尊氏。さらに言えば、京の室町幕府全盛期、太政大臣となり朝廷を支配した足利義満でさえ、ここまでの条件は突きつけなかった。
 このような背景があったから、朝廷から『信長討伐』の密命が下ったのかもしれない。

さて、
 明智光秀が謀反を起す背景は、後世では様々な観点から語られている。

 以前から、私自身が疑問であった点がある。
このとき護衛の家臣数十名と共に堺にいた徳川家康は、伊賀の間道を抜けて、光秀の討手を逃れて三河に戻ったことになっており(後日、家康最大の危機であったとされる)、このときの先導役として伊賀の服部半蔵の功績が認められた- - - とされる(現在の皇居。半蔵門は、大奥を守護した彼の名前に由来)。
光秀は、反信長陣営に、当然密使を送って、光秀に味方するように画策を図っている。本能寺の変では、同時に二条城に居た信長の息子(長男信忠や五男など)の陣も急襲して討ったが、信長に味方する徳川家康を討ちもらしたことになっている。
しかも、本能寺で明智光秀に信長が討たれたとの報を聞くと、家康はうろたえて、数十名しかいない供回りだけで「京に行く」との騒ぎになったという。
だが、そんなことは、ありえない。一国一城の主(あるじ)が、そんな精神状態であるはずがない。
それに- - -
□ 徳川家康の長男は、(将来を見越してか)信長によって切腹させられている。
□ 自分の息子を殺されて、ジッと耐えてきた家康が、反信長の旗頭となろうとする光秀を、本気で討とうとするだろうか。
□ 家康は、その後のパワーバランスを見定めた上で、行動を起こす方が得策ではないか。
□ 光秀にとっても、この点を十分に踏まえた上で、家康を自陣に引き入れる工作をした方が得策ではないのか
と、思われる・・・のである。

いや、
 私自身は、本能寺の変を裏で操ったのは、漠然と「徳川家康」ではなかったのか、と思っていたのである。

 織田軍は各地を征服しており、「天下布武」の野望が着々と整っており、朝廷はすでに信長の傘下に入ってしまい、その一翼を担う家康は、その後の信長の自分に対するあり方を、当然想定していたはずである。
家康の息子を生かしておくと、自分の息子の代で取って代わられる危険性を察知して、切腹させた信長という人物の本性を、イヤっというほど見せ付けられている。
信長は、
□ 歴代の将を用済みとなった時点で次々と追放しており、明智光秀にも過酷な状況を強いていた。
完全に日本を統治する皇帝に納まってしまう前に、何らかの手を打っておかないと、家康自身の身にも災いがもたらされる可能性は、間違いなくあったはずである。
それに
□ 信長は、新築した安土城に徳川家康を招いたときの供応役に、明智光秀を指名していたが、信長の逆鱗に触れて解任させられた。この一件が、光秀謀反の引き金になった- - - というのが、後世の主たる見解である。
□ だが一方で、すでに天下を掌中に治めつつあった信長は、連立する徳川家康を亡き者にしてしまう必要性を認識し、いずれ自分の息子を殺した信長に敵対する前に、葬ることを画策しており、その役目を明智光秀にやらせようとした- - - という説がある。
□ これは、信長の行動をみれば納得がいく。すでに甲斐の武田は滅び、東方に織田の勢力を伸ばすのに、三河の徳川家康は邪魔者になっていた。
□ 光秀は、信長の密命を固辞したために、供応役をはずされて、信長に疎んじられた- - - というのである。
□ 結局、光秀は、日向の領地を取り上げられて、新たに自分で領地を奪い取るように命じられ、いずれ信長に追放される運命を察知し、羽柴秀吉の援軍に発つための軍を動かすときに、「敵は、本能寺にあり!」と謀反に走らせたのである- - - とする見解も、納得できる。
そうであれば、
□ 徳川家康にとって、明智光秀は息子の仇を討ってくれただけでなく、自分自身の身の安全を確保してくれた恩人でもある。それはまた、心情的にも、また天下を狙うにも、絶好の機会を導いてくれた。
だから、
□ 本能寺の変の黒幕は、実は徳川家康である。家康が光秀をして、謀反に走らせたのであって、光秀軍の討手を逃れて国許(くにもと)に帰陣したことになっているが、全ては筋書き通りに事が運ばれたのである。
という説には、十分な説得力がある、と思われる。

 この点にアプローチすると、
□ 本能寺の変のとき、光秀から家康に密使が来て、「直ちに国許(くにもと)に帰るように。深追いはしない」旨が伝えられた。
との、反応が得られた。
 

 ここまで書き込んできて・・・・自分ながらに自嘲してしまう。
 本コラムは、「歴史を考える」という私の妄想と捉えられても仕方がないものであるが、「プロローグ」のつもりであった。
 次回の本論において、「坂本竜馬暗殺を命じたのは、誰か?」と題して、可能性のある人物の写真分析から、アプローチしていく・・・つもりであった。
 それが- - - 上杉謙信に関わる昔からの逸話をきっかけに、次々と膨らんできてしまったのである。

 ついでなので、明智光秀についての、これまた昔からある疑問について、霊体(エネルギー体)にアプローチして、その真偽のほどを自分なりに確かめてみたいと思う。

□ 光秀は、本能寺の変の後、予想を超えた速さで舞い戻ってきた秀吉に(註:この秀吉の大返しこそ、本能寺の変の黒幕が、羽柴秀吉説の根拠になっている)、山崎の合戦で破れ、落ち武者になっている途上で、農民に殺された。
と、される。
 その一方で、
□ 殺されたのは影武者であって、実は徳川家康に庇護された(この説は有力:光秀の首実検では、かなり腐敗していたという)。
□ 家康が後に、江戸を開いたときに活躍した『天海』僧正とは、実は明智光秀もしくは、その関係者(兄弟か息子)である、との説は根強い。
□ 天海とは、信長によって焼き討ちされた比叡山延暦寺の高層(前半生は不明)とされている。彼が、江戸城を囲む- - - 歴代の将軍家の菩提寺となる増上寺や寛永寺、あるいは日光の東照宮、さらには江戸の町を守る様々な仕掛け(不動尊の配置など)を行なった人物である。
□ その当時、日本における築城の高度な知識を持っていたのは明智光秀であり、信長の安土城(その当時の日本最大の城)を築城したのも、光秀の力である。だから、天海と光秀は、同一人物の可能性がある。
□ その証拠は、日光東照宮に明智家の家紋(桔梗)などが、巧みに配置されている。
というものである。
 その他にも
□ 天海は僧侶の身でありながら、徳川の軍議に参加している。家康の信任が厚かったというだけでは、釈然としない。
□ 春日局(かすがのつぼね:三代将軍家光の乳母で、諸大名はおろか老中までも平身低頭するほど、権勢を誇った)が、天海僧正と会ったときに、深々と頭を下げて、「お久しゅう御座います・・・」と言ったという。春日局は、明智光秀の重臣であった斉藤利三の娘であった。

 これについては、実際にアドバンス・アカデミーでも光秀の霊体(エネルギー体)を転写して、その真意に迫ったことがあったが(このとき、山崎の合戦で死んでいないとの反応を示していた)、あらためて追求してみた。

 得られた反応は、次のものであった。
□ 天海であることは、否定しない。肯定もしない。そこで、さらに追求すると、天海は婿養子の明智秀満である。自分(明智光秀)は、必要に応じて天海となった。
という。
 つまり、天海は二人存在したことになる。

 さらに
□ 秀吉に敗れた後、彼が天下を掌握したので、東海地方の寺院に隠れて居た。家康とは連絡をとっており、必要に応じて、家康に招かれた。
□ その寺院の名前は、「ざ行」で始まる- - - 「ず」「い」「念」や「禅寺」が出てきた。ネットで調べてみたら、東海地方(岡崎市)に随念寺が出てきた。禅寺ではないが、ここの別院に「居た」との反応がある。
□ 徳川家康が天下を治めた晩年には、明智家ゆかりの寺院で過ごし、生涯を終えた。
という。
□ その寺とは、禅寺の大本山である「大徳寺の別院」ということで、高野山方面である、という。
ネットで調べてみたが、よく判らない。
□ 光成は、「63歳で死亡した」と、霊体(エネルギー体)は応えている。

 以上が、霊体からの反応である。真偽のほどは、各人の判断にお任せするしかない。

2010年6月中旬